Chellieのこと
2018年 07月 01日
今日、久しぶりにバレエを見た。ある教室の発表会。
今日見た作品の内容より、見ている間に得た気づきがとても意義深く、今日行ってよかったと思った。
小規模ながらダンサーたちが嬉しそうに生き生きと踊っている姿がとてもまぶしかった。その姿を見ていると自分が習っていたころのことを思い出した。
いろんなことがあっても、踊っているときはそれらを忘れて全身で表現できることがうれしかった。そこにいるときはいつもの自分ではなく、別人になれたから。でも、それが親のやっている教室っていうのはちょっときつかった。好きだけど、素直になれないことがあり、好きだけど完全に楽しみ切ることができなかった。レッスンでした失敗やとった態度のことを家の中でも言われる。姉からも言われる。逃げ場がなかった。だけど、そのことに傷つきながらもほかの生徒と音楽に合わせながら踊ることはやっぱり楽しかった。
今日舞台の上で踊る彼らを見ていて、いつかの自分と重なりあの時は何もわからなかったし何も考えていなくてその瞬間だけに精いっぱいだったけど、実は自分自身を踊りで表現できることが一つの喜びの表現方法だった、ひいては踊りを通して生きていることを喜んできたのではないか、とさえ思えてきた。
教室では怒られ先生の言葉に傷ついて、自分には才能がない、バレエは私には向いてないと心がいじけて卑屈になっていてどうにかその呪縛から解かれたいとすら思っていたけど、私の大切な一部だったはず。つらくて苦しくて嫌でたまらなかったけど、その中にも自分が自由になれる時があったのは本当。だからダンサーたちのまぶしさが今日この瞬間までいろんなことを超えてきたゆえであることに思い至った。
“きっと直面している現実は変わらなくても、自分が別人になれる瞬間があること、それは直面している現実が厳しければ厳しいほど別人でいられるその時、その人の輝きが増す”と、そのように思えた。そのことに気づいたとき、6年前の夏に出会ったChellie(シェリー)のことを思い出した。
彼女は香港人の両親に英国で育てられたブリティッシュ。でも、ご主人がシンガポール人で当時シンガポールに住んでいた。毎年夏に安曇野であるイングリッシュキャンプに参加するためにその年やってきて、私たちは出会った。共に過ごしたのは一週間だけ。日々のプログラムを共に行うことが目的だったので、分刻みで毎日を過ごす私たちはあまり深く個人的な話しをする機会もなかった。でも、その時に参加した大人の中で子供を持っているのは彼女だけで、だから子供たちに対する目線はつねに母で、誰よりも子供たちの安全に目を光らせ、ひとりひとりのケアに心を砕いていた。その姿を頼もしく感じ、それ以外にも彼女の洞察力、判断力、リーダーシップ、はじけるように周り明るくする大きな笑顔など、6年も前にたった1週間を共に過ごしただけなのに、私の心を今でも離さない何とも言えない魅力が彼女にあり、よく思い出していた。
また、そのイングリッシュキャンプの最終日、皆で振り返りの時を持ち、一人一人が感想を述べていた時彼女が言っていたことが私はいつも気になっていた。
「私はこのプログラムを通して自分がいかに人を見かけで判断して、心の中で人を裁いていたかがよく分かった。」そういいながら彼女は涙を流した。
前述したとおり、私たちはプログラムを遂行することに忙しく、深い話をする時はほとんどなかった。だから彼女が何を意味して涙ながらにそう言ったのか、私には今でも本当のことは分からない。でも、そのことを今日バレエを見ながら思い出した。
Chellieはその夏からほどなく、子供を連れて本国英国に帰った。数年前SNSを通して彼女は素敵な英国人男性と再婚したことを知った。
あの夏私の目にキラキラ輝いていて、とても堂々としていて頼もしく、参加した子供たちも私たち運営側の大人をも引っ張ってくれたChellie。その後知ったことも併せて順を追って考えると、「もしかして。」と一つ筋道がおぼろげに見えてきた。
“私たちが共に過ごしたちょうどあの頃、もしかして彼女は大きな決断をしようとしていたのかもしれない。背負っている問題があるにせよそのことをひととき忘れ、置かれていた現実とは違うところで別人のように自分を解放できたことが彼女をあんなにも輝かせたのではないだろうか”、と。だから私は彼女の流した涙と彼女の姿に接点を見出せず、6年経ってもいつもあの時のことが気にかかり、折に触れて思い出してきたけれど、今日まで合致しなかった点と点の間にあったであろう影の部分は、つぶされそうになりながらその課題に耐えてきた彼女の強さでそれがあのとき私の心を捉えた彼女の魅力だったのではないだろうか、と思えた。
自分の置かれた現実とは別の日常を生きている誰かがいることにも救われることがある。でも、置かれている変えられない現実の中でも別人になれる瞬間があることは人に生きる勇気を与え、痛みを伴いながら磨かれていて、いつの間にか輝きが増すようにも思う。それは強さや魅力という次元を超え、尊さでさえある。
“削られて砕かれて身欠かれて磨かれて自分になる。”
巡り巡って大切な気づきを得た今日2018年7月1日。